第1回『三菱財閥の大番頭』

は、嘉永元年(一八四七)元高七十石の荘田充命の長男として臼杵藩塩田に生まれた。慶応三年(一八六七)藩命により、江戸の青地信敬塾で英語を学んだ。江戸留学の際、福沢諭吉を尋ね西洋地理書を購入して帰っている。帰藩後再び宮川玄水と共に鹿児島の藩学開成所へ藩命により入塾した。平五郎は洋学を学び、宮川玄水は医学を学んでいる。平五郎は翌年臼杵に帰り、許されて、慶応義塾へ入塾している。明治二年、二十四才の時であった。三年後、優秀だった荘田平五郎は福沢諭吉により義塾の教師に抜擢されて教授料六両が支給されるようになり、臼杵藩より支給されていた月々の補助金を辞退している。

もそも福沢諭吉は臼杵藩に恩義を感じていた。下級士族の家に生まれた諭吉は三才で父を亡くし、母は下駄作りなどの内職をしいられた。貧しいうえに中津藩の門閥主義は上士、下士の厳然たる差別があり、子供同士の間にも差別をうみ、諭吉にはつらいものであった。後の福翁自伝では長崎に遊学へ出る時「こんな所だれが居るものか、一度出たら鉄砲玉でも再び帰ってこないぞと後向きで唾して出発した」と記している。諭吉は中津を離れる事を決めたが借金を整理しなくてはならず、蔵書百二十六冊を持って臼杵を尋ねた。諭吉の蔵書は十五両の大金で臼杵藩が買い上げ、そのおかげで諭吉は大阪の適塾へ入学する事ができた。諭吉は臼杵藩に感謝し、臼杵藩は福沢諭吉という中津の若者に投資したことになる。そして諭吉の開設した慶応義塾には多くの臼杵人が学ぶこととなる。明治三年の荘田平五郎を初めとして、その数は他に比べて群を抜いている。

 明治八年、平五郎は三菱商会へ入社したが、そこには福沢諭吉と岩崎弥太郎(三菱の創始者)との友好な関係があった。福沢、岩崎、荘田の密接な関係は長く続き、それに伴い臼杵より慶応義塾に学んだ若者が三菱へ入社するという形が生まれている。

 平五郎は明治十二年、東京海上保険会社の創設に当り、重役となる。十四年には明治生命保険会社を設立するなど活躍した。三菱商事支配人を経て三十年には三菱造船所の支配人となった。この間、東京商工会議所の特別委員をもつとめるなどし、三菱の最高幹部となっていった。

 ところで、三菱一号館の建設された場所は、徳川幕府が倒れてから大名屋敷は取り払われ草茫々状態であった。荘田はすべて買うように進言した。「荘田さん、あんな土地何にするんですか?」「さア、虎でも飼いますかな」と笑った。そこが丸ノ内である。現在東京駅より皇居にむかって、丸ビル、東京海上、郵船ビル、三菱電気、三菱銀行、三菱重工などの近代的ビルが立ち並び、わが国の経済活動の中心になっている。

 荘田平五郎は故郷臼杵を愛し、臼杵の文化向上を心から希望し臼杵図書館を寄贈した。「故郷臼杵よ、文化の光に浴せよ、そしてより美しい臼杵に成長せよ」と・・・。