今村孝治

第19回『国会議事堂の設計者』

武は東国東郡に生まれた。臼杵に叔父が住んでいた関係で旧制臼杵中学に学び、明治三七年臼中を卒業して京都高等工芸繊維学校工芸学科に進んだ。

後に宮内省東宮御所御造院に勤務している。この時、欧米へ出張し、日本に無い建築物を見聞する機会に恵まれた事が、近代建築者として大きく飛躍する事となる。帰国後の大正七年、帝国議会議事堂の建築案が公表され、設計図の懸賞募集(コンペ)があった。彼はすぐさま設計を開始した。そして、「僕が主となって他にも二、三の人に援助して貰い、共同してこれに応じたのが二通提出して二通とも予選を通過した、それからその決議に於て一つは三等になったが、もう一つは一等に入選した。」と吉武は新聞記者に語っている。この入選がきっかけで、当時議事堂建設の主管、大蔵省へ引き抜かれ、臨時議院建設局技師として主任の重任を命ぜられた。

 そもそも国会議事堂建設案は明治三〇年に遡るが、当時ドイツ派(官)、イギリス派(民)などの派閥があった。それに内務官僚、大蔵官僚も絡み複雑な争いがあった。政府はたびたび調査委員会や準備会を設けて、基本構想を練ってきたが、その都度うやむやになっていた。しかし、ついに大正七年、大蔵省内に「臨時議院建築局」の官制が公布されたのである。そしてコンペ案を元に辰野金吾の弟子たち吉武東里、矢橋賢吉、大熊喜邦などが手を加えて現在の形になり着工の運びとなった。吉武は主任技師として、当時世界一と称せられた、ゴチック建築の大英帝国国会議事堂を十分に意識していたようだ。苦心した所は内部にあるという、材料はすべて国産の建前から、全国から集められた。大理石にしても山口、徳島、高知、茨城などから良質な物が集められ、議院石などといわれた。

 かくして、日本新議事堂は、近代ルネッサンスの粋をあつめて最新の建築工程を使い完成した。敷地二万坪、建坪五千七百坪。延人員二百五十万人を動員して、十九年の歳月を要し昭和十一年に完成した。祝典を前にして「今帝都の話題を賑わして居る大分県出身の三偉材がある。貴族院書記官長、長世吉氏。衆議院書記官長、田口粥一氏。大蔵省技師、吉武東里氏で何れも新議事堂起工以来、名トリオ陣を形成して寝食さへも忘れて天晴れ大任を全うした光栄の人々である。」と新聞は報じている。

国政の頂点に立った村山のトンちゃんもこんな話知らないであろう。

注1)吉武自身複数の人の援助があったと語っている事から、設計コンペはグループ名での提出であったと考えられる。当時、著作権は確立されておらず、公式の設計者は臨時議院建築局と記されている。 

注2)文中の辰野金吾は東京駅や日本銀行を設計するなど、日本近代建築の第一人者。大分銀行旧本店(赤レンガ館)は大分県内にただ一つ存在する辰野の作品である。

文・吉田稔 http://www.coara.or.jp/~myks4/