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勝人は臼杵藩の武道師範で百五十石の実相寺常之丞の次男として、安政元年(一八五四年)二月に生まれた。九才で学古館に入り、文武において一番の優秀な成績で漢籍をも修めている。 十五才の明治元年、箕浦又生の養子に入った。同四年、荘田平五郎に伴われ上京した勝人は慶応議塾に入学し、英学(英語)を学んだ。この頃は学費を補うために報知新聞へ投稿したり、議塾児童寮の教師を勤める等している。明治八年卒業とともに、報知新聞社へ入社した。彼は独自の論戦を展開し「議会論」を連載した。一躍論壇に箕浦勝人の名が載ることになった。ところが少々言論に行き過ぎがあったのであろう、当時の新聞紙条例に抵触し鍛冶橋監獄に二ケ月禁獄された。この事が箕浦勝人にとって政治家へ進む、きっかけになったのではないだろうか。出獄後は慶応議塾の経営に入り福沢諭吉の指揮下で既刊誌の編算に従事すること一年余。その後帰郷して養父又生の女不二子と結婚した。 同年慶応議塾の先輩で文部省直轄宮城師範学校長の吉川奏次郎の招きで同校の教師になった。翌年、箕浦勝人は校長に抜擢され二六才で其の校長となった。 つづいて神戸商法講習所、岡山商法講習所と専ら商業教育に従事した。同十四年、明治生命保険会社(創設者荘田平五郎)大阪支店長を勤めたが、再び上京して報知新聞社に入り同志と立憲改進党を組織するなど政治色が強まってきた。 同十五年、日本橋区より東京府議会議員になり、いよいよ政治家として踏み出した。東京府政のため尽力していた明治二十三年、日本国は恐慌であったが、新しく国会が開かれる事になった。大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法、貴族院令が交付され、七月に第一回総選挙が行われた。その結果、山県有朋内閣が発足、初代貴族院議長に伊藤博文を任命。箕浦勝人は大分県第二選挙区(南北海部)より衆議院議員に当選した衆議院第一期生である。以来三十七年間一度も落選することなく国会議員を勤める事になるのである。 同二十九年、松方正義内閣で初めて官職に就き、農商務局長に任ぜられたが、議会で政府提出の地租増税案に反対して免官になった。また言論自由の為に奮闘し新聞紙条例を改正させている。 同三十一年、逓信(現郵政)次官。同三十七年、第二十一議会で衆議院副議長に任命されている。大正四年八月、第二次大隈重信内閣で逓信大臣に任命された。ここで勝人は生命保険の事業に全力を尽くした。そもそも保険制度は福沢諭吉がヨーロッパから学んで帰り、それを三菱がいち早く取入れ明治生命、東京海上などを設立した。勝人も明治生命大阪支店長を勤めた経験から、より多くの国民が安価で容易に入れる生命保険を国営すべきであると考え、逓信省簡易生命保険を設定した。一年三ケ月の短い在任期間であったが、実り多かったのではないだろうか。同年十月、内閣総辞職により野に下り政界の長老として君臨した。 文・吉田稔 http://www.coara.or.jp/~myks4/
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