第25回『山頭火の友人』

 和六年、後藤貞夫は臼杵中学(第三〇回)を卒業し、広島高等師範学校(現広島大学)へ進んだ。卒業とともに大阪府立富田林高等女学校に赴任して教鞭をとっていた。着任して一年足らずの昭和十一年三月十六日、山頭火は東途行脚の途中に貞夫を訪ねるために富田林に立ち寄った。法衣に笠の出で立ちで学校の玄関に立った。女学校ゆえ好奇の目に囲まれるのは避けられなかったのは当然である。弘川寺へ行きたいと言う山頭火に貞夫は困った。案内したいのは山々だが、着任して一年足らずで新米教師の貞夫では代理を頼むこともできかね、残念ながら独りで行ってもらうことにした。 貞夫は帰りを待ちかねて、一緒に銭湯へ行き背中を流しながら河内(富田林市)の印象などを尋ねた。弘川寺は大層お気に入りだった。

下宿に帰り夕食をしながら酒を酌み交わし、新任の教員の暮しぶりを話したり有意義な一夜であった。翌朝、京都に向かうと言うので、出勤前に富田林の駅まで見送った。富田林高女の勤めが五年になった頃、貞夫はもう一度勉強をし直す必要を痛感し、再度大学入学を考えていた。ところが昭和十三年に父を見送り、老母と二人暮しになっていた貞夫には容易に決断しかね、松山に落ち着いたと聞く山頭火へ逢いたくなり、その準備をしていた。この時には後に太平洋戦争が勃発し勉強どころか生活に苦しみ、やがては原爆の被害をうける事など貞夫には知る由もなかった。

 貞夫は松山に向かった、昭和十五年四月の事である。

 宇品港から船に乗ったが雨で久しぶりの瀬戸の風景は何も見えない。三津の港に着いた午後は、ひどい風雨になっていた。道後温泉に入湯して、友人高橋宅に宿を借り次の日、二十八日(日)山頭火と二人で松山を見物することにした。幸い前日の雨はあがって、濡れた若葉が美しい宝巌寺に参詣する。石段の両側には女屋が並び客引きをする家もあった。この道を通らなければ、お寺に参れないのが暗示的で面白いではないかと山頭火が言う。ついで石手寺に向かった。天気は良くなり日曜日で参拝の人々で賑わっていた。藤の花の下がる茶店に入り、貞夫は焼餅を食ったが山頭火は早々一杯。正宗寺を廻り、城山に登り天守閣へ上がった。美しい松山平野を眺望し城山を降りると、山頭火は飲み足らないらしいが、貞夫は付き合いきれないと考え五円渡して別れ高橋宅へと帰った。次の日、起きぬけに温泉に行ったが、朝日を背に受けて麦の穂と菜の花の向うに城山が美しくみえた。朝食をすましたところに山頭火がやって来て旅に出るという。貞夫と高橋と二人で見送り、高橋の案内で昔臼杵中学で英語の先生をしていたという重信さんを訪ねて、懐かしい臼杵の昔話をして午後の船に乗った。 松山から富田林に帰った貞夫には、いつもの生活が待っていた。一ケ月程した五月二十七日、学校から帰ると山頭火が来ていた。「私はあくまで反社会的非家族的な人間ですね」と語っていた山頭火も元気そうだが盛んに生活立て直しの願望を貞夫に語っている。九州へ旅立つと言うので家の前で見送ったが、これが貞夫と山頭火の最後の別れとなった。

 ところで貞夫と山頭火が知り合ったのは昭和八年の小郡だったが、山頭火は昭和四年に臼杵へ来ている。

 十二月、九六位山から臼杵石仏へ向かった。しぐれの時期に濡れながら山路を歩きに歩いて深田についた山頭火は、「秋風の送られて時雨に迎えられてこゝまで来ましたが、毎日の雨で詮方なしに『雨日聴雨受用不尽』などと呟いております。仏陀の慈悲蔭いや深くして意外な供養を受けました」と井泉水へ手紙を出している。また、「濡れ仏となって臼杵の石仏を拝観しました。或は観賞し、礼拝しているうちに、すっかりうれしくなって、抱きつきたいやうな気分になりました。そして豆腐で一杯やりました、こんなに親しみのある仏様、こんなにうまい酒がメッタにあるものではありません」と記し「しぐるるや石を刻んで仏となす」と詠っている。 山頭火は臼杵が気に入ったのか、八日間に及ぶ異例の長滞在であった。

 このとき後藤貞夫は臼杵中学で黙々と勉学に励んでいた。後藤家は元高五百石の名門で、家老職を勤め藩士録も六番と高位である。辻の旧宅(現進来医院)は堂々とした長屋門が往時を偲ばせている。