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臼杵で政治家を語るとき第一に山本達雄の名が上げられる。大臣を勤め貴族院議員として華麗なる一族をつくり上げた男としては皆の知るところであるが、彼は決して裕福に育ってはいない。 安政三年(一八五六)三月、海添鉄砲町に父確、母シマの次男として生まれた、七人兄弟の四番目のである。幼年期はいわゆるガキ大将で喧嘩は強かったという。そんなワンパク坊主も勉学には励んでいる。 達雄十三才の時、山本家では本家の山本幽妻の家で子女が早世し後継者がなくなり、達雄がその養子に入った。本家と言っても藩士番四百五十九番の下士で、挙げ句の果てに養父母が病気になってしまった。達雄は一人で養父母の看病に当ると同時に、僅かな雑収入を求めて働いた。この頃であろうか、幼少より書道を勉強していた達雄は筆達者で、他家の表札を書いたり、看板なども書いて家計をささえた。 後に達雄は上京して慶応義塾に入ったが月謝がつづかず大阪へ行った。教員養成学校に入り、小学校教師になったり、三菱商業学校へ入り、岡山県立商業講習所の教師になっている。それから大阪府立商業講習所教頭にもなっている。彼は青年期も波乱だったようだ。 達雄の方向が定まったのは三菱汽船会社に入社した時点である。二十八才の時で、荘田平五郎が招いたものである。横浜支店副支配人、東京支店の副支配人を勤め、三菱の後押しで日本銀行に入った。当時日銀の初任給は帝大出身者で三十五円で慶応出身が十五円であったという。達雄は営業局長としてロンドン出張し、英蘭銀行で銀行員の中でオックスフオードかケンブリッジ大学出は幾人いるかと質問したところ「一人もいない銀行員は常識があればいいので、そういう人は必要がない。」と答えたという。達雄はこれに感激して、家人に語って聞かせているが、その背後には自らの学歴の乏しさが意識されていたのであろう。当時の日銀には学閥が存在し帝大出身のエリート学士が多かったのに対して、達雄は私学の出身でしかも変則的な学歴の持ち主である。そんな彼も四十三才の時、日銀第五代総裁に任命された。 山本達雄は総裁就任後かなり強引に自説を押し通していた。そのため総裁と他の重役とのあいだに意見の食い違いが生じるようになって行った。理事や局長など(理事四人、局長七人、支店長四人)十五人は相談し、皆で辞表を出せば山本総裁は大いに困るであろうと考えた。ついに明治三十二年十一名までが辞表を提出するという事件に至った。いわゆる「日銀ストライキ事件」である。山本総裁は大いに弱るかに思われたが、なんと、あっさり辞表を受理してしまった。この事件に関して政界の元老伊藤博文は「他の重役が辞表を出したからといって、総裁をやめさせたのでは秩序が保てない」と山本達雄を援護し政府に意見を述べている。結局、辞表を出した人達は日銀を去って行った。 日銀総裁の任期が終了し、四十八才で貴族院議員になり、いよいよ政界に足を踏み入れた。第二次西園寺内閣で大蔵大臣に任命された。これは本人も世間も予想外の人事であった。そもそも日本で経済界出身の大蔵大臣というのは達雄が第一号である。後に農商務大臣、内務大臣を勤め大分県と臼杵に対して多くの援護をいただいている。 達雄は大正九年男爵を授けられ、昭和十年には宮中杖を許されている。若い時代は波乱であったが、三菱に入社以後、日銀に入った事が達雄の生涯を決定づけた。後半は財界、政界で順風萬帆の歩みで、正二位と言う高位も授けられ、九十二才で逝去た。 |