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幕末の日本は動乱の時代であった、桜田門外の変につづき幕府と薩摩、長州藩の対立は京都の鳥羽、伏見で激突した。次いで戊辰の役となり、延いては会津に及んだ。この騒乱警護のため臼杵藩も朝集令により京都警護を命ぜられた。三村君平は藩主久通公と共にその任務についていたが、日本は新しい時代へと流れていた。慶応四年四月、江戸城は官軍の手に渡り、八月に天皇即位式、九月九日より明治と改元され、江戸は東京と改められた。三村君平は明治改元が日本の将来にどんな意味を持つのか、臼杵藩はどう対応すればいいのか、そんな事を考えながら臼杵へ帰って来た。明治元年十一月の事である。 明治四年になると豊後の各県は廃止になり大分県と統一され新しい行政は整いつつあったが、明治十年に西南戦争が勃発し、君平は臼杵隊の先鋒二番隊に配属され戦ったが臼杵隊は破れた。 君平は西南戦争により中断を余儀なくされた国立銀行を創設するべく奔走した。そもそも国立銀行とは、明治政府の発行した各種紙幣の整理と為替会社に代わる金融機関の設置を目的として、紙幣発行の特権を有する株式会社組織の国立銀行条例が制定されたのである。大分に於ては、まず第二十三国立銀行(大分銀行の前進)が明治十年に設置されている。次いで中津の第七十八、佐伯に百九国立銀行ができた。臼杵は金録公債証書を資本として金二十五万円を以て国立銀行を設立する事に決し、三村君平が請願委員となって大蔵省へ出向いた。ところが臼杵士族の計画している資本金は大分二十三銀行の五倍にもあたり、中津、佐伯を加えた総資本をも上回り、なにより大分県の資本総計の限度規則を上回るのが確実視された。そこで大蔵省の大隈重信は東京で開設し臼杵を支店にするよう指導した。,明治十一年十二月、大蔵省より開業免許が下りた。翌年の明治十二年一月十一日、東京京橋区に於て、臼杵士族による第百十九国立銀行は営業を開始した。更に一月十八日臼杵町に支店を開設した。 君平は支配人として順調なすべりだしであった。また、東京で華族と列した稲葉家の相談役に就任している。一方臼杵では留恵社と銀行両社の監督機構として留恵本会が作られ、利益は両社に分配する事になっていた。だが平等に分配されず留恵本会の一部社員は留恵社及び銀行の役員を兼ねて、二重三重の利益を受けていた。そんな折り、米相場に失敗し業績は不振になった。貸金の不公平も発覚し、出資者より不満を願い出る者が続出し訴訟へと発展した。長崎控訴院(明治三六年)まで実に五度に渡る訴訟事件になった「留恵社事件」である。士族の留恵社がゴタゴタ始めた頃、八町を中心にした商人による商談会が旗揚げした。可児孝次郎、甲斐文七、田中作衛門、小手川角三郎などの人々がリーダーとなって、士族をあざ笑うかの様に発展していった。 留恵社の損失は東京の百十九銀行本店にまで及び、銀行本体が危うくなり、破産にでもなれば出資者の士族は悲境に到る事は明かであった。そこで三菱の大番頭荘田平五郎は救済に乗り出し、三村君平と連日論議した。君平は臼杵の重役へ上京するよう再三願を出すが返事すら来ない有様で苦悩していた。荘田は三村に救済案を示した。三菱による銀行の買収である。両者共に臼杵士族を救うとの大儀は一致していたが、君平は士族の為に優位に話を進めようとし、時として激論が交わされた。銀行買収には三村君平を残す事が条件になっていた。其の事がむしろ彼には重荷に感じるとともに、なにより長男として臼杵の自宅に帰って暮したいと考えていた。 協議の末、第百十九国立銀行は貸借差引残額は無しとして、資産額を四十三万円と定めた。これを三菱に買収させ臼杵士族の出資金は返還する事で二人は合意した。 三菱は三井、住友に遅れをとっていた金融部門を手中に納める事になり、第百十九銀行は三菱銀行として日本の金融界に君臨して行ったのである。そして、三村君平は三菱財閥の金庫番といわれた。 |