第9回『大阪の赤ひげ先生』

「山本省三は在阪県人会第六代会長をつとめた人物である。

 彼は下北かじや村の片岡家の男三人兄弟の末子として、明治二十六年に生まれた。尋常小学校は三島神社の前の道沿いの狭いところにあった。運動場は無く、子供らは専ら三島様の境内で遊んでいた。高等小学校は福集 寺の裏にあって下北、上北、海辺の三村から生徒は通学していた。

 この頃になると父親は百姓に学問はいらない、と言い容赦なく手伝いをさせた。唐臼で米つきをしていた省三は手に本を持って勉強しながらやっていた。その音を聞いた母は大声で叱った。「何という力の入らぬ突き方か、もっと真剣につかんな」「はい」省三は言い訳などしなかった。高等小学校二年を終えると臼杵中学へ行くことになったのだが、たいへんな仕事が待っていた。

 中学へ着くまでに野菜やみかん、花、梅の実などを売って歩けと言うのである。六キロの道乗りを六尺棒をかつぎ、前後にざる(篭)をぶら下げ、わらじ履だった。「花やー花」「夏みかん」と臼杵の町中を売って歩いた。売りつくすと祇園橋の下に六尺棒と篭をしまい、海添川で足を洗い篭の下に入れている靴をはいて服装を正して校門をくぐった。

 裕福な農家であったが働く事の尊さを身につける為の親心だった。省三は「はじめの間は恥しさに声も出ない程でした。この頃は一課目でも成績が悪いと(平均六十五点以下)落第させられるので勉強は真剣にしました。」と回想している。そのためか最優秀の成績で臼杵中学を卒業した。

 長崎の医科大学へ進んだ省三は医師として第一歩を踏み出し、大阪西成区で開業した。ここは大阪一の底辺の街とでも云うか、貧しい人々であふれ暴力もはびこっていた。職にあふれた日雇い労働者による、騒乱事件の勃発などで警察も手を焼いていたが、どんな荒くれ男も省三の一喝で飼い猫のようになっていたと言う。彼は貧富の差別なく治療にあたった。

 西成の日雇労働者は職業安定所の開くのを待って我先に仕事を探す、運良く仕事に有り就いた人はトラックの荷台にすしづめで現場へ行く、彼らは医者へいく時間さえも与えられないのである。そんな労務者の便宜をはかるため診療は職安の開く前の朝七時から始めている。患者の中には涙する者や手を合わせ頭を下げる者もいた。それもそのはず貧しい人からの治療費は一切取らなかった。噂は広まり朝早くから行列ができるようになって行った。そして人々は「赤ひげ先生」と呼んだ。

 彼は「早起きは苦になりません。考えようによれば少年の頃の習慣が私の一生を左右したものだとも思われます。」と語り、今年の正月は子や孫みんな集まりました。その時「おじいちゃん、お母さんの夢を見ることがありますか」と孫にたづねられました。私はじっと目をつぶって亡き母のことを思い出すと、次から次に色々な場面が頭に浮かんで涙がとどめなく流れて大そう困りました。と記している。

大阪の赤ひげ先生も昭和四十六年、七十九才で永眠した。葬儀の日は医師会、各界の人と共に省三の死を悼む人々の列は延々数キロ続き、今日もなお語り草になっているという。

文・吉田稔 http://www.coara.or.jp/~myks4/