[13] 中元・生身玉
明治10年(1877) 1年のはじめには、朝卯の刻前(午前5時前)若水を汲んで奥様に差し上げ、その後奥様は殿様の居所である表に入り、お具足(よろい)を拝見し、大福茶をあがり、つづいて新年のお雑煮、御祝膳を囲む。 元旦から3日までは御祝膳が出される。武家のお雑煮には、くしこ(なまこの干した物)、串貝(あわびの干した物)が使われた。 稲葉家のお雑煮も、幕末までは餅、くしこ、串貝、結昆布、大根、焼豆腐であったが、明治10年のこの献立では餅、まな、花鰹のみと極めて簡略な物になっている。雑煮の餅は紅白である。 正月用のお重は、大晦日の年越祝儀に出されていた。
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おせちの重詰め おせちの重詰めは、大晦日に五段重ねの御重を用意している。 一の重はさざえ、二の重数の子、三の重煮豆、与の重たたきごぼう、、五の重田づくりで現在に比べると彩りが淋しい。この当時のおせち料理は官民ともんいこのようなものであった。 大晦日に、新年の準備が整うと年越し・歳末御祝儀が行われる。年越しは、大晦日や一月六日、十四日などにも行われた。 また、昔は除夜は新年最初の夜とされていたが、現在では十二月の最後の夜と考えられるようになった。
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御鏡餅 御鏡餅は、宮中や幕府の規式と同じく紅白二段の餅であった。観修寺家伝とされる『御定式御用品雛形』の規式と稲葉家の行事は非常によく似ているので、飾り方などもほぼ同じであったと思われる。
鏡餅は、殿様、姫君など銘々に作られ、もっとも大きいのは殿様の母親にあたる方のもので、直径一尺二寸、米二升分も使って御身鏡餅といわれた。
餅つきは十二月の二十日前後に行われ、臼杵城では朝四時ごろから始められた。 江戸屋敷では、賃餅で壷屋という菓子屋に頼んでいた。
七草 一月七日は七草(七種)のお祝いである。
七草とはせり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろの七種であるが、旧暦の一月七日(現在の二月)に七草を揃えることはできなかったようだ。 何種類かのものをまな板の上にのせ、お囃子とともに刻んだものをお粥に入れて七草粥をつくり無病息災を願った。
小正月 一月十五日に粥を祝う風習は古く『枕草子』にも見られるもので、現在の小正月に継承されている。
享保二十年(1735)の『続江戸妙子』には小豆粥を祝うと書かれているが、稲葉家の場合文化十四年(1814)にはじめて「朝御膳御粥上る」とでている。