参考文献
臼杵の殿様暮らしと食
(大分合同新聞社)

 

第18回 年中行事と食べ物「年中行事まとめ」
献立
【一年の行事】
イラスト 武家の年中行事は、元旦には御家門や譜代大名の登城、二日には外様大名などの年始御礼、三日には御用始めなどと細かく定められていました。

 さらに五節句などや毎日一日と十五日の月次(つきなみ)御礼として江戸城への挨拶、徳川家の菩提寺参拝などとにかく行事がいっぱいで本当に忙しかったようです。

 五節句としては、正月、三月三日の上巳(じょうし)、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の重用などがあり、またその他の行事としては一月二日のお買初(かいぞめ)、一月七日の七草、一月十一日の御具足餅のお祝い(鏡ひらき)、一月十四日のとんど焼、一年最初の午の初午、春秋の彼岸、六月一日の氷室、土用・暑入り、中元、生身玉(いきみだま)虫干し、八月一日の八朔、八月十五日と九月十三日の二度の月見、十月の亥の日の玄猪、冬至、寒入り、十二月の煤払い、餅つき、歳暮祝儀、節分などが行われていました。それぞれの行事は臼杵においても江戸屋敷においても同様に行われていたようです。

献立
【今はなき行事】
イラスト

 これらの年中行事は、宮中の年中行事の様式を記した「御定式御用品雛形」と非常によく似ています。
 例えば、正月の紅白のお鏡餅、お買初め、七種、上巳、端午、中元、八朔、玄猪などの規式が図示されているが、御鏡餅などからみて、武家の規式は宮中や幕府にそったものと思われます。

 江戸幕府が権威をもって定めた行事に八朔がありますが、この日は、慶長八年(1603)徳川家康が江戸に入った日として幕府の重要な行事とされていました。臼杵城でも、家老をはじめ庄屋やその息子、領内の職人など三百人余りを登城させて祝ったということです。
 大名たちの江戸城への登城の身支度は白装束と定められ、この風習は当時の遊里吉原のおいらんにまで及んでいたようです。しかし江戸後期になり幕府の権力の衰退とともに真っ先に消えていった行事でもありました。
 日本の歴史とともに先人たちの伝えた年中行事の中には、現在既に消えかけているものも多くあり、先年亡くなられた司馬遼太郎氏は、文化というものは根雪のようなもので、保存の気分のないところには残らないといっておられます。
 永い年月をかけて培われた日本の文化を、可能な限り次の世代へ伝えたいものですね。