第24回 年中行事と食べ物「武家の人生儀礼」
献立

 人が生まれてから死ぬまで、さまざまな節目を経る。
 現代でも、入学や就職、結婚など様々な人生の節目は存在しますが、昔ほどいわゆる“儀礼”というものは行わなくなりましたね。

 武家においての最も重要な儀礼は、家督相続でした。これを自家の都合で勝手に行うことは出来ず、幕府に伺ってから許可がおり、そしてお披露目となっていました。家督の祝宴には酒と肴、鯛ひれの吸物などが女中までの身分全員にふるまわれ、5日以上お祝いしたようです。

 婚礼も重要な儀式の一つでした。
 もっとも、家格を重んじる時代のことで、当人同士の意思などとは関係なく、家督同様幕府にお伺いをたてて決めていました。十歳に満たない子どもの婚約・結婚なども珍しくありませんでした。
 次いで家を守るためには後継者が必須で、子どもの誕生は待ち望まれていました。特に男子は次の藩主となる可能性もあるので、事は重大でした。
 出生のお祝いに続いて、宮参り、箸の御祝儀、初節句、初誕生日とこどもの死亡率が高かった時代には、ひとつひとつの節目がお目出度いことであった。
 さらに、今の七五三にあたる髪置(かみおき)、袴着(はかまぎ)、紐ときなどのほか、元服、鉄奬(てっしょう、お歯黒)なども大人となる成長の一過程の儀式である。
 また、成人後は賀の祝いとして四十才、六十才(還暦)、七十才(古希)、七十七才(喜寿)、八十八才(米寿)、九十才(卆寿)、九十九才(白寿)、百才、百六才などの記録が残っています。この記録からも長寿の人もかなりいたようで、臼杵藩では八十才、九十才などの人に米や麦を贈って祝っていました。
 病気では、麻疹(はしか)と痘瘡(ほうそう)が多かった。そして若者の死が多かったところをみると結核が多かったのではないかと思われます。
 痘瘡は、今は予防法として種痘が確立しほぼ絶滅した病気であるが、江戸時代にはこれで命を落とす子どもが多かった。したがって、治るということは本当にめでたいことで、盛大にお祝いをした。
 殿様や奥様の死についても記録がある。稲葉家の墓所は、臼杵では月桂寺、江戸では品川駅近くの東禅寺にある。遺骨を分骨して高野山に埋葬した例も多い。

参考文献 臼杵の殿様暮らしと食(大分合同新聞社)