第20回

昭和25年 二月二十三日 木 晴

 から思えば、今けいこ中のものとはいえ、折の折に、よくよく人間無常の歌をうたったものだと不思議に悲しい。やがて夕方になったので、おカユを今朝の流儀で炊き、魚久がイカを持ってきたので、それをほそ作りにした。こんなものが彼は好きだし、これでまた食欲が加わればと思う期待から、イカの刺身をあがらない?ときくと、「新しければ食べる」と答え、枕の端にのせていた顔をすこし横にうつ向けたと思うと、急に高いイビキを二度した。それを覗きこみ、父さんどうしてそんな高いイビキをするの、といった私の声に返事がない。私は部屋を飛び出して階段上から手を叩き、声を上げて先に夕食をしていたSをよんだ、Sは駆け上がり、Mも庭の中の彼の家からとんで来た。イビキの声は三度とつづかなかった。Sがとった手首にも、手をおいた胸にも脈があったが、野崎さんと近くの田中医師が駆けて来たときには完全に他界の人となっていた。顔は青く白くなり、額からつねに気にしていた血管の膨れた紐が消え、口につめた綿で痩せて尖った気味であった両頬がおだやかにまる味をもち、如何にも優しく、おだやかな死の相貌を呈した。私は悲しさよりも、死がかくまで、快げに、愉しげにさえある眠りであることを知って、羨ましくさえかんじ、こんな風でこの世が去って行けるものなら、明日でも死ぬことをためらわぬと考えさえした。

 

 になって思うと、野上の今度の死は、三年前の病気からきまって、すべてが今日に備えての準備であったようにさえ感じられる。あの当時には思い切った買い物であったこの家を手に入れたのも、彼の死の床を気持ちよくさせるためであったかも知れない。あの病気がなければ私も山を離れず、この家も買わなかったろうから、あのマイナスが私たちの生活をプラスにしたのだとは、この気持ちよい家の生活について話すときいつも話し合ったものであったが、もしあの燿三の家の二階で突然こんなこんな事が生じたとしたら、どれほど不便であろう。また私も死に目にも逢わない始末になったであろう。それを思うと全てこれで良かったのだと考えなければならない。今度の発病も吐き気で始まったので、もとの病気の再発かとはじめは胸をつかれたのが、風邪ということになり、本人はもとより私たちまでみんなノンキな気になったことは、一方残念でなくもないが、それで死につくまでおそらく何等の不安も恐怖も与えないですんだことはなによりの教えとも考えられる。岩田さんからの一政の屏風が枕屏風であった時、死ねば逆さまにたてるのだ、と一瞬頭にひらめいたことも、一種のプレセンチメントであったろう。永眠の二日前であったが、取り出して丁度病床から眺められる隅にたてた。そうしてやがて逆さ屏風になったのである。みんな駆けつけてくれた中に安倍さんもおくれず来てくれてうれしく心強かった。


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