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野上弥生子エピソード【19】


戦争ぎらい

昭和十六年十二月八日、「帝国陸海軍は西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」のあのラジオ放送を私は東京で聞きました。日本人みんなが、あの時感じた身の引き締まる思いを私は今でも憶えています。夕方、伯母の家に行ったら、伯母は「日本は大変な戦争を始めたものだ」と一言いいました。私にはかすかではありますが、戦争否定に聞こえ、若かった私は伯母の発言が気にさわったものでした。
 燿三さんは東大を卒業してすぐ海軍に入りました。ある日、海軍中尉の軍服を着た燿三さんが帰省し、軍に帰ろうとするところに出会いました。燿三さんは伯父と伯母に「行って参ります」と敬礼して出ていきました。伯父は「てれずに敬礼したね。あの子はどこへ行っても一番だな」と言いましたが、伯母は何も言わずに黙って見送っていた姿が印象に残っています。
 昭和十八年、私は入隊することになり、伯母の家に行きますと「お前はニコニコして、戦争に行くのが楽しそうだね」と伯母は言いました。伯父は「力ちゃんは砲兵だったね。砲をひいて、ひねもすのたりのたりかな−そんな兵隊ができそうだな」と言い、色紙に坂上田村麿呂のお能の絵を書いてくれ、裏に伯父が「赫兮喧兮」と、伯母が「武運長久」と書いてくれました。ちょうどロシア文学者の湯浅芳子さんがきていて「野上先生。私にも絵を書いてください」と盛んに伯父に甘えていました。湯浅女史は断髪でズボンをはいており、ハイカラなおばさんが伯父に甘えるようすを見て私は奇異にも感じ、伯父夫婦の異なった一面、伯父の人の良さを感じたものでした。
 大東亜戦争が始まった頃、私は三ヵ月ほど毎日のように伯母に接していました。その間、伯母は戦争のことは一切口にしませんでした。
 ある時、伯母はふと「勝負という字は勝と負と書く。勝つ場合もあるし、負ける場合もある。だから、勝負というのですよ」とつぶやきました。私は戦争は特別のものと思っていました。
 弥生子は戦争ぎらいでした。戦争は絶対起こしてはいけないと思っていました。
 朝日新聞は、毎年正月一日に新春のことばと題して多くの人の今年の願いを掲載致しました。
 昭和十二年の一月一日の新聞に、野上弥生子は、一つのねぎごと(神に祈る事)として「神聖な年神さまにたった一つのお願いごとをしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか、いいえどちらでもよろしゅうございます。コレラとペストが一緒にはやってもよろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように……」
 この事は反戦思想であるとして、随分評判になりました。不幸にして、その年の七月に支那事変が始まりました。

フンドーキン醤油株式会社
会長小手川力一郎


左から耀三、茂一郎、素一、
豊一郎、弥生子(昭和11年頃)


豊一郎の絵、弥生子、道郎の字。
(兵隊に行くときにもらった絵)


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