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野上弥生子エピソード【9】


文化勲章と弥生子

化勲章の制度が出来たのは、昭和12年で、60年前です。毎年4人受章しますが、女性で受章した人は、上村松園と野上弥生子(昭和46年受章86才)の2人だけです。
 野上弥生子とは、どんな人かと質問された場合、なかなか答がむつかしい。敢て言えば、「偉大なる常識の人」という事になります。賞や地位を望まない、お金や権力を欲しがらない人だ。毎日、毎日が努力の人、毎日、毎日が勉強の人でした。又、知識欲が強く、精神集中の出来る人でした。一年経つごとに、人物が大きくなった気がします。年をとるにつれて、人間が立派になった女性だと思います。

60才の時よりも70才の時の方が
70才の時よりも80才の時の方が
80才の時よりも90才の時の方が
90才の時よりも99才で亡くなる時の方が偉らかった。

受賞の数々、
 受賞することはその人物の偉大さを証明する事でもないし、証明できるものだと言い切れないし、又、伯母も手ばなしで受賞を喜んでいたわけではありませんが、晩年になっての受賞の数々は弥生子の成長を現わすものであろうと思います。

 

ルーズベルト夫人と

野上弥生子文学記念館

 

文化勲章(昭和46年11月)

63才(昭和23年)日本芸術院会員になる。
72才(昭和32年)読売文学賞を受賞
79才(昭和39年)「秀吉と利休」で女流文学賞を受賞
80才(昭和40年)文化功労者に選ばれる
86才(昭和46年)文化勲章を受章
87才(昭和47年)臼杵市名誉市民となる
96才(昭和56年)朝日賞を受賞

私が東京の成城の自宅の二階で伯母と話をしている時、伯母はとなりの部屋の押入れを片付け始めました。うしろから、のぞいて見ると、いろいろな物が積み重なって置いてあります。立派な箱の入物があったので、あけてみたら、文化勲章が入っていました。「伯母さん、この勲章を私に下さい」と言ったら、「ああいいよ、持ってお帰り」という返事。
 それで、私は文化勲章を預って帰りました。どこに飾るという訳にもゆかないので、そのまま保管しておりました。昭和60年、伯母が突然亡くなった時、長男の野上素一さんから電話があって、「力一郎さんは母の文化勲章を持っているのですか。母の葬儀に必要なので、持って来てください」との事でした。翌、昭和61年、臼杵市の弥生子の生家に野上弥生子文学記念館が開館したので、弥生子の記念品はすべて記念館に納められました。だから、文化勲章は、現在臼杵の野上弥生子文学記念館にあります。
フンドーキン醤油株式会社会長
小手川力一郎


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