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野上弥生子エピソード【2】


厳しい面も
大分中学を卒業した私の弟道郎(小手川酒造社長)は、七高の受験に失敗して東京の予備校に通学しましたが、その折(昭和十八年頃)伯母の家に下宿していました。
ある日、道郎が熱を出して寝ているところに、たまたま上京した父が訪ねてきました。
寝ている弟と父が話をしていたところに、お茶を持って入ってきた伯母が、いきなり声を荒げて「親と話をするのに、寝たまま話すとはなんということですか。ふとんの上にキチッと座って話をしなさい」と弟を厳しく叱り、さらに父に向かって「甘やかして育ててはだめですよ」とカンカンになって怒ったそうです。
私も伯母からしかられた事があります。伯母の家にやっかいになって二日目、私の部屋に来て伯母は「掃除の仕方がよくないですね、私がするから見ていなさい」と言って、手拭であねさんかぶりをして、口を手拭で覆い、はたきでぱたぱたと窓の埃をはたき落して、床をはわき、雑巾でふきあげました。「掃除はこうするものですよ」と私に言いました。
伯母の家では、家族皆んなで朝一斉に自分の部屋の掃除をしておりました。お手伝いさんがいたにも拘らず、朝、伯父も伯母は勿論のこと息子も一斉にはたきをかけ、掃除をする様子は私には驚きでした。伯母は私に、日常の事を教育するつもりだったのでしょう。次男の茂吉郎さんが九大の講師をしていた時、(昭和十八年)私は茂吉郎さんの家に一晩泊った事があります。その翌朝、妻の正子さんが茂吉郎さんの靴に靴墨をぬっていたところ、茂吉郎さんが「それは僕がする」と言って、自分の靴をとりあげて磨き始めたのを思い出しました。茂吉郎さんは昭和六十年七月八日伯母の死から百日目に亡くなりました。
それで、三男の燿三さん夫婦に今日(平成九年十月)電話を入れて「現在でも靴を自分で磨くのか」と聞いたところ、「当たり前でしょう。野上家も市河三喜家も自分の事は自分でしている」と言われました。「私は、結婚以来自分の靴を磨いた事はありません。ブラシをかける事はするが、クリームをぬっての靴磨きはした事がない。」と言ったら、「力一郎さんはまだ殿様のような生活をしているんですね。今の若い夫婦には通用しませんよ」と言われました。
フンドーキン醤油株式会社会長
小手川力一郎

弥生子・豊一郎写真
▲弥生子(明治45年6月)(左)
▲豊一郎(明治42年9月)(右)

移築された離れ(軽井沢)
移築された離れ(軽井沢)

豊一郎・弥生子・小手川道郎寄せ書軸
豊一郎・弥生子・小手川道郎寄せ書軸


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