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野上弥生子エピソード【21】


芥川竜之介の辞世の句

「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」
私の父、小手川金次郎は学生時代、姉、弥生子(6才上)の家に下宿していましたが、弥生子の家と芥川竜之介の家は近くにあり、父は字が好きで、竜之介の家で字について何度か二人きりで長時間話しています。

父の臼杵小、中学校の同級生の金田剛平(俳人)から竜之介の俳句をもらってくれと短冊を頼まれた父は、芥川に向い自分は俳句をやらないし解らないが友人から頼まれたから頼みますといったら、快く引き受けてくれました。その時、何枚か短冊は持参して行きました。その後、杳として書いてくれませんでした。ところが芥川さんの宅の近くで向うから歩いて来る芥川さんに偶然出会ったのです。長髪を半で分けてふわふわさせて和服でした。

会うなり父は、ああ芥川さん俳句をちっとも書いてくれませんなあと催促をしますと「ええ」といってその日はそのまま別れました。それからしばらくして、短冊が来ました。しかも五枚も書いてきたので驚きました。

早速金田さんに一枚好きなのを取ってもらい、その中で一枚妙な句と思われるのがあったので、これは私が取っておくといって取りました。あと三枚は後日、知人にやりました。父の取った句は「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」というのでした。

すぐ短冊のお礼と共に、かまぼこを送りました。ところが折返し6月21日日付の礼状がきました。その中に旭川と題書して「雪解の中にしだるヽ柳かな」という一句が記してありました。

それから一ヶ月も経たぬうちに芥川さんは自殺しました。その時、朝日新聞に芥川さんの辞世の句として発表されたのがさきに父の取った水涕の句であした。あれが辞世の句であったのかと父はひとしお感慨を深くしました。

水涕の句は辞世の句として何枚も書いて友人知己に送っていたものと思って父は余り重きを置いていませんでした。所がその後侍医の島村勲の著書が出ました。その中に芥川臨終の記事がありました。

それによると、芥川家から急に使が来たので島村侍医はすぐかけつけたましたが、すでにこときれていたので家族の方にそれをつげました。その時芥川の母が言うには、竜之介が昨日、「明日先生が来られたらこれをあげてくれといったものがある」と島村さんに渡されました。島村さんは、その場でそれをあけて見たら、水涕の短冊が一葉あったというのです。(この文章は、私の父小手川金次郎が生前に毛筆で書き残した中から引用したものです。)

フンドーキン醤油株式会社
会長小手川力一郎

芥川竜之介

「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」


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