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野上弥生子エピソード【14】


頼り甲斐があった女性

野上豊一郎、弥生子夫妻と美濃部達吉(美濃部前東京都知事の父で憲法学者)夫妻とは大変仲良しでした。

戦後間もない頃、達吉夫人が伯母の家に遊びに来ていろいろと相談をしていました。それは東京にある美濃部家の広大な土地を売り払って、新しく家を建て、そこに息子亮吉(後の東京都知事)夫婦と一緒に暮らしたいと思うがどうかとの相談でした。

伯母は屋敷を売ることにも、息子夫婦と同居することにも反対しました。「息子亮吉さんの奥さんは小坂財閥の娘(今の自民党小坂徳三郎氏の姉か妹)でお嬢さん育ち、あなたは東大総長菊池大麓の娘でお嬢さん育ちでわがままです。息子夫婦と同じ家に住んで、うまくいくはずがないから同居するのはやめなさい」と止めたのでした。

しかし、結局新居を建てて同居しました。何年もしないうちに、達吉夫人が伯母を訪れ、「息子の亮吉夫婦を別れさせたい、ついては亮吉を呼んで説得してほしい」と頼みました。伯母は、子供の時から可愛がっていた美濃部亮吉さんを呼んで実情をたずねました。

その結果、亮吉夫人にミスのあることがわかり、離婚やむなしという事になりました。離婚は法律問題でもありますし、これ以上は女性の自分が出る幕ではないと伯母は思い、亮吉さんの恩師である大内兵衛先生に来ていただき、解決を依頼しました。

伯母の偉さの一つは、自分の力の限界を知っていたことです。これ以上自分が出しゃばるべきでないと判断したら、そこでただちに身を引いて、家庭生活に戻っていました。

この離婚事件は、東京都知事に出馬した時、美濃部亮吉候補のウィークポイントになりましたが、亮吉側は真相は野上弥生子さんが知っているの一点張りで切り抜けました。

伯母は臼杵の商家に育ったことで、経済観念もありましたし、生活態度もきちんとしていました。妻としても母としても立派でしたし、ものごとの判断も正しく、常識ある女性だったと思います。ですから、伯母と交際があった女性達にとっても、随分頼もしく、得がたい相談相手だったのでしょう。

伊藤野枝が大杉栄といっしょになりたいと伯母に相談にきたのも、自民党吉田ワンマンの息子健一氏(英文学者で文芸評論家)の仲人を頼まれたのも、美濃部家との関係をながめても、伯母が頼り甲斐のある人、相談のし甲斐のある人だったことを裏書きしています。

伯母のお通夜は四月一日、自宅で身内だけで行われましたが、故吉田健一氏の夫人とお嬢さんは終始同席されていました。


北軽井沢の山荘での野上夫妻
(昭和20年ごろ)

フンドーキン醤油株式会社会長
小手川力一郎


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