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野上弥生子エピソード【20】


宮本顕治夫妻と親しく

戦時中は思想統制が厳しく、いろいろな人が思想犯で刑務所にほうり込まれました。吉田茂元総理でさえ、自由思想、危険思想の持ち主ということで、当時、刑務所に入れられたほどでした。伯母も、思想小説的な「真知子」などを書いたからか、戦時中、警察から取り調べられた事はありますが、刑務所に入れられた事はありませんでした。
伯母には共産党の宮本顕治氏やその夫人で作家の宮本百合子さんなど左翼といわれた人達の友人も多くいました。伯母だけがなぜ刑務所入りしなかったのか、戦後しばらくその理由が私には、わかりませんでした。年が経ち、伯母の偉さが私にもわかるようになって、初めて伯母が警察に引っ張られなかった原因がなんとなく、わかってきました。それはみんなが伯母をかばったからです。
戦争が始まって思想取り締まりが厳しくなると、左翼系の人達は伯母の家に寄りつかなくなりました。「野上さんに会いたいが、野上家に行けば野上さんが警察に目をつけられて迷惑をかけることになるので行けない」という伝言がいつもあったようです。伯母が家庭を第一にし、主人と子供達を大事にする人ということを、宮本さんなど伯母の友人達が感じ取っていたからだと思います。伯母は旧姓小手川で、明治三十八年に東大生の野上豊一郎と結婚しました。野上豊一郎は臼杵中学 ― 一高 ―東大 ― 法政大学の先生 ― 文学部長と進み、昭和二十二年に法政大学の総長になり、二十五年に脳溢血で倒れ、自宅で亡くなりました。
 作家中条百合子は宮本顕治氏と昭和七年二月結婚して宮本百合子になりました。宮本顕治は翌八年治安維持法で逮捕されました。宮本百合子は野上弥生子と非常に親しくしていましたが、昭和二十六年に死亡しました。
 野上豊一郎の命日には、いつも必ず宮本家から花が贈られています。宮本顕治氏が再婚してからは、新夫人寿恵子さんが野上家へ花を届けています。一方、宮本百合子さんの命日には、野上家から宮本家に毎年花を届けていて、この花の交流は三十五年間も続きました。
 二十四才年下の宮本顕治氏は時たま野上家を訪れていました。私の想像ですが、宮本氏のような大物に遠慮なく、率直な意見を言う人は極めて少ないと思いますが、その点、伯母は宮本氏を尊敬するかたわら、弟か子供に対するように、ずけずけ、いいたい事をいっていたようで、宮本氏にとっても、かけがえのない人だったと思います。
 野上弥生子数え年百才のお祝いが五十九年五月十日東京会館で開催された時、宮本顕治さんもお見えでした。

フンドーキン醤油株式会社
会長小手川力一郎

宮本百合子(右)との対談
「女性の眼を世界へ」(「婦人公論」昭和26年2月)のとき。昭和25年12月に対談が行われ、翌年1月百合子は急逝した。


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